「台東の生活は、本当に苦労ばかりです!」と、日本から来た森下雅子さんは話してくれました。雅子さんのこの言葉は、テーブルの上に注がれた冷たい麦茶が入った透明なグラスから滴り落ちる、まるで汗のような水滴のように、私に冷や汗をかかせました。「でも、今では台東が大好きです!」と微笑みながら話す雅子さんからは、日本の女性特有の優しさに溢れる気質が感じられました。

森下雅子

雅子さんは、友達の紹介で成功に住むご主人と知り合いました。当時、交際期間に成功へ旅行に来た時は、『絶対に結婚できない』と思っていたそうですが、ご主人の誠意と努力が彼女の心を動かし、彼女に、台湾へ嫁入りして家庭を作る決意をさせました。「台湾への嫁入りは、習慣に慣れなくてとても大変です!」と、雅子さんは言います。日本の大阪で生まれ育った彼女にとっては、賑やかで便利な生活が当たり前でした。結婚当時の台東には、故郷の味もどこにもなく、異郷の地に慣れようと努力していた彼女にとっては、それはストレスにも感じられました。「15年前、成功に嫁入り来た時は、ここにはコンビニもありませんでした。当時の台東には、コンビニは中華路に1軒しかなく、日本のものなんてありませんでした。」コンビニで売られているおにぎりを見て心を踊らせ、日本に思いを馳せながら頬張ったおにぎりは、故郷の味がせず、その切なさから、幾度となく涙を流したこともあったそうです。幸いにも、彼女は台東の果物がとても好きだったので、果物ばかりを食べて日々を過ごして多そうです。ご主人と雅子さんの二人で、わざわざ高雄まで車を走らせ、やっとの思いで日本の商品を購入しに行くようになり、ようやく彼女は心の落ち着きを取り戻し、ホームシックに陥ることも少なくなりました。

当初、雅子さんは、飲食問題に加え言葉の壁にぶつかり、心を閉ざしてしまい、生活の楽しさを感じられない日々を過ごしていました。しかし、ご主人が、クラッシックバレエを習っていた彼女に、『バレエを教えてみないか』と提案し、その励ましもあり、彼女は、成功地区の子どもたちにクラッシックバレエを教え始めました。すると、奇跡的に、バレエの授業を受けにくる子供たちが、閉ざされていた雅子さんの心の扉を開け始めたのです。「最初は、バレエを教えるのにも言葉の壁がありました。私自身も、まだ心の扉が開いていませんでした。その当時は、私が少し説明して、それを主人が子供たちに伝えるという方法でバレエを教えていました。」と、雅子さんは、当時を振り返りながら話してくれました。最初は、あまり気が乗らないまま始めたバレエの授業も、子供たちと触れ合っていくうちに、その楽しい雰囲気と、親御さんのサポートに、雅子さんの心境が少しずつ変わっていったと言います。また、毎年開催される子供たちのためのクラッシックバレエ発表会では、一生懸命練習を重ねて来た子供たちが、その練習と学習の成果を披露しています。「これは、子供たちへの評価です。発表会の衣装や舞台設計、音響などでは、親御さんも手伝ってくれるので、とてもありがたいです!」

それは、まさに一筋の希望の光のようでした。雅子さんは、この子供たちと出会うために、この成功の地へ来たのではないかと考え始め、この十数年の辛い思いは、やがて雲が晴れるかの如く消え去って行きました。 「今では、心境もだいぶ変わりました。最初は、台湾人を受け入れることができませんでした。ご近所さんがあまりにも情熱的で、慣れなかったんです。」日本人の観念では、訪問するときは、まず相手方にいつ何時に訪問するかを伝えてから訪問するのが普通です。しかし、この考え方は、台東の田舎町では通用せず、皆、思い立ったら相手方の家に上がり込み、話し込んでしまうのです。この台湾式の情熱に、雅子さんは拒否感を覚え、受け入れられずに長い間悩んでいました。

雅子さんが台湾式の情熱を理解し始めたのは、二年前、日本の酒井充子監督が、「台湾万歳」のドキュメンタリーを成功で撮影したことがきっかけでした。酒井監督が、撮影の合間に雅子さんを訪れ、話をしたり、成功の地元の物語を見せたりしたことで、雅子さんは、少しずつ台湾人の個性、観念、そして人々の情熱がどのようにできたのか、その背景を理解するようになったのです。このことがきっかけとなり、雅子さんは、やっと台東の地元の友達と心から気持ちを通わすことができるようになり、その情熱にも拒否感を持たなくなりました。台東の地を、本当の意味で好きになり、生活が楽しめるようになったのです。

森下雅子

雅子さんが「今では、日本に帰るときには、友達には台東の袋をお土産に渡します。これは、友達にもすごく評判が良いんです!」と、台東市場で売っている赤、青、緑の模様が入った非常に便利な手提げ袋が、日本の友人に評判が良いと言うので、それが何なのかがあまりにも気になり、すぐにインターネットで調べたところ、雅子さんが言うこの手提げ袋は、現在、台湾でも話題性が非常に高い「茄芷袋」のことを話していたことがわかりました。なんと、この庶民的な手提げ袋が、雅子さんによって、最高のお土産として台東から日本へと渡っていたのです。雅子さんは、まるで運命が成功の地に引き寄せられ、最初は、この地が受け入れなかったものの、今ではすっかり台東が好きになり、可愛い子供たちと舞台で踊り回っています。また、台日交流の部分では雅子さんの語学力も一役買い、2016年には、佐賀県太良高校と台東成功商業水產職業学校の交流も実現しました。彼女は、台東への愛を行動で示し、台東の子供たちの視野を更に広げ、子供たちがどこまでも続く広い空へと羽ばたけるようにしたのです。雅子さんは、笑顔いっぱいで、自信満々に「私は、台東の子供たちのためにこの地に来たんです!」と言ってくれました。